竹久々『無題恋情歌劇』サンプル
*注意
*19世紀パリパロディです
*テノール歌手(18歳)×歌劇場支配人(25歳)、ただし竹谷のみイタリア人です
*今回のサンプルで竹谷は歌っていません、本編にてがっつり歌っています
*サンプルは第二幕第一場からの抜粋
*実際は縦書きです。
*横文字のため本来のものと若干異なります。
(文章の量や改行など)ご了承ください。
* * *
兵助の突然の申し出から二日。
主役の座をかけた試験は明日。
なぜ、歌劇場支配人、そして最高責任者兼権限者の彼が竹谷へ肩入れをするのかと疑念が生まれていた。
相変わらず冷めた目は何一つ色を変えていないのに。
(こんな下っ端を…)
劇団の中でも限りなく隅の役である自分を。
『竹谷を主役にする』
一人で練習する姿を見られた時も、眉一つ動かしていなかった。
何も言わずに、主役、ヒロイン、町人諸々の歌を聞いていた。
声が震えていたはずだ。
彼にじっと見つめられて。
その黒曜石に似た、そして漆黒で闇色に染まった髪と瞳は、
不思議と嫌悪はなく、むしろ美しいとさえ思っていた。
『新たに追加する主人公の歌で試験をする』
――どちらを主役にするか
「はぁ…」
気づけば、川辺の隠れた橋下にいた。
仄暗い其処には家々を持たぬ人々がおり、竹谷にとって格好の観客だった。
彼らの審美眼は案外鋭い。
おしゃべりに興じる観客も然りだが、
こうして遊び半分、真剣半分、何気ない指摘が竹谷を喜ばせるのだ。
「おや、はっちゃんじゃねぇか」
「よ、はち坊!」
「今夜は酷く遅かったな〜」
「色々あったんだよ」
ハハッと笑えば小指を軽く立てられ、コレか?なんて問われる。
一笑して返事をする前に後ろにいた別の老人が、抜けた歯を見せて否定した。
「って、むっさん、そんなにはっきり否定しなくても」
「ちげぇねぇ、此処に来るってことは女の〈お〉の字もねぇよな」
「あほう、男も〈お〉の字だろうが」
ガハハッと大仰な笑い声が伝染する。
竹谷は向けられる真っ直ぐな冗談に苦笑いをするしかなかった。
まぁ、どこか影で囁かれる方が性分に合わない。
「ところで、はっちゃん悪いな」
「?」
ニヤリと一番前にいた老人は黒焦げの歯を見せて笑った。
ボロボロのポケットからはみ出した土だらけの指がうねうねと動いている。
「いつもの場所、先客がいるぜ」
「え?マジで?」
目当ての自然の舞台が先にとられている。
川辺の緩やかな場所。
竹谷はカチンと固まりながら口をぱくぱく。
「でもな」
ちょいちょいと手招きされる。
はっとして、そのゴロゴロした掌へ導かれるように竹谷は顔を橋下から向こう側へと移した。
まるで壁のように茂みがある。
その先に隠れている、隠れているが、誰かいる。
凜として靡く――
(黒髪――?!)
町にいないわけでもない。
しかし、どこか胸を締め付けられる、動悸が早くなる。
「結構な別嬪さんだぜぇ、男だろうが女だろうが、まぁ関係ねぇや」
――ありゃあ、上玉だ
彼らの下品な物言いなんて気にせず、
竹谷は一歩一歩茂みへ近づいていく。
彼方の人から見えないよう、しかし確認すべく。
(もしかして、いや、まさか)
なんで、あの人が、だって、あの人ならば――
(地位も、名声も、あるはず)
頭の天辺、銀髪の跳ねを押さえ、
竹谷は大柄な体を出来うる限り隠した。
ガサリ
(しまった!)
が、目線の先にいる人影はこちらへ視線を一切やらず。
ほっと一息ついて、しげしげと見つめればやはり、そうだ、あの人だ。
「………久々知、さん」
自身の劇団を雇っている劇場の支配人。
なぜか己に肩入れをしてくれている人。
彼の長い髪を後ろ手束ねた格好は女のようにも見える。
立ち姿でかろうじて男だろうか、と思える気配。
だが、こんな汚い川縁で、何を。
と理由をグルリ、普段使わぬ頭を回転させる前に、サァ。
一風。汚泥の匂いではない。
彼の醸し出す、何か、もっと澄んだ香り。
「…――オーマドレピィア、マァドレ――」
微かに聞こえた、声。
虫たちも、まして後ろにいる家無し男たちも、黙ってしまう。
不自然な竹谷たち。自然な氷麗兵助。
まるで、この真っ暗で淀んだ闇の中に薄く光る満月。おぼろ月。
「…っ!」
響くのは、美しい、カウンタテノール。
高く、甘美な祈り。
(ヴェルジン・トゥト・アモール…)
イタリア語の有名な、マリアに捧げる祈りの古典的歌曲。
自身もよく歌い、また自身よりも低声域のものが囁くように歌う、甘美で悲しい曲。
なぜパリの身近な歌ではなく、しかも祈りなのか。
だが、竹谷の口はだらしなく半開きだった。
夜に包まれていた。
光がサラサラと照らし、どこか地の片隅から、天上を眺めている、情景。
黒曜石が輝く、時々に竹谷は震える。
彼の息継ぎですら、僅かに漏れる吐息ですら逃すまいと。
髪の毛が揺れる度に、懇々と語られる歌。
曲と途中で膨らむ丘に、込められた熱さ。
祈りには似つかわしくない熱さ。
熱い、冷たい中にこれでもかと、熱が込められて。
掌を頬へ。気づけばひどく熱かった。瞬きも忘れる。
短い曲だ。もうすぐ、という感覚すらなかった。しかし
「……っく!」
途中で止まる。
最大級の祈りは、罪人の声を伝えることなく川の向こうに響く前に、終わった。
途端、景色は突如として薄汚い川縁へと戻る。
(久々知さん?!)
苦しそうにゲホゲホと喉を押さえ必死に落ち着かそうと胸を叩いていた。
「おい、あいつ大丈夫なのか?」
家無したちがザワザワと。
「むっさん、なんかねぇの?!水とか」
「安い赤ならあるぞ」
葡萄酒がタプリと揺れる。
「仕方ねぇ」
流れる川水を飲ませるわけにもいかない。
「これ、借りるからな」
「あ、おい、はち坊!」
家無しの被っていた目深な帽子を借りギュゥと銀髪を隠して、
ビリリと破いた布切れと紐で目から鼻を覆う長いベールを作り、帽子で挟める。
見るからに怪しい奴だろう。ばれてはいけない、聞いていたことを。
それでも、未だ苦しむ兵助を放っておけなかった。
先ほどよりも、嫌な音が混ざり始めていた。
「おい!」
いつもより、低い調子で。
バッと兵助がこちらを向く。
大きな目を見開き、濡れた宝石をちりばめながら。
グッと近づき、彼を自身の胸元へ引き寄せる。
微かな抵抗はあったもののどうやら息が苦しく力が入らないようだ。
コルクを片手で抜き
「ゆっくり飲め」
まるで子供に分け与えるように。
――あの冷たい人が、よくわからない無表情の美しい人が
――今、腕の中にいる
喉仏が嚥下。
嚥下した先に滴る、飲み干せなかった赤い、葡萄酒。
咄嗟に、考え無しに、だんだんと落ち着き始めた彼の首筋へその軌跡をなぞるように竹谷は舌を這わせた。
「ぅん…!」
鼻にかかる、甘い声。
「落とすだけだ、安心しろ」
もっとも、五月蠅いのは竹谷の胸の鼓動だろう。
聞かれただろうか。
ほんのりと酒が回ったためか、それとも咳き込んだせいか。
兵助の瞳は赤く熟れていて。目尻に接吻を落とす。
(俺…俺は何を…――)
しかし、心に浮き上がる気持ちはまったく別で。
――駄目だ、この人を今、街へ野放しにしては
警鐘が、まるでノートルダムが自身の耳元ですぐ鳴っている。
竹谷は苦虫を潰し残っている酒を口に含む。そうして――
「――深い眠りを」
クチュリと弛緩した兵助の唇に舌と葡萄酒をねじ込む。
喉に焼けるほどの、眠り薬を。
彼が瞳を閉じるまで。
何度か口移しでまるで貪るように口づけをしてしまえばぐったりと兵助は腕の中で眠っていた。
息を荒げているのは、竹谷、である。
月が嘲笑うように照らしてきた。
鮮やか過ぎる様は先ほどの罪を嘆く歌詞と似合わない。
竹谷はそのまま兵助を横抱きにし、唖然とする家無したちへ帽子を返すと町へと消えていったのだ。
(俺は、いったい)
夢中になって、月に当てられたのは、どちらか。
この胸に眠る人への気持ちは、まだわからない。
* * *
*前後続きは本にて。